昭和は何もかも元気だった
(20260425) ガスのあんちゃんが毎月置いていく通信。 面白いのでいつも真面目に読む。 右の二軒は民宿をしていたのは初めて知った。 左が梶原で右が荒木という家で同級生がいたが どちらも癌で亡くなっている。 荒木君とは仲が良くてよく泊まりに行ったが 未婚だったので今は空き家になっている。 梶原さんの方は旦那が残っていて一人で暮らしているようだ。 昭和の初め頃、吾妻山にスキー場があって ナイターがあったというのは聞いていたが 中国新聞の写真を見たのは初めてだ。 ここを開いた小田研一さんは 比和で「比婆美人」という造酒屋をしていた。 その会社は庄原市内に生き残って営業をしている。 町の町長をしていて写真は見たことがあるが こんな事業をしていたとは知らなんだ。 僕は吾妻山の林道が半分出来たころスキーを担いで登った。 更に写真左の小山ルートから右の山頂に上がり 向こう側の大膳原に滑り降りたことがある。 よく晴れていたので山頂から大山の方向を見たら 下は雪庇(雪のオーバーハング)になっていた。 トンデモナイ絶壁に肝を冷やした。 遭難しないでよく生きて帰ったと思う。 51年経ってもあのことはよく覚えていて 思い出せば足が震える。 あれから林道が全線開通して 僕が還暦のお祝いをした吾妻山ロッジができて 越原(おっぱら)にもスキー場ができた。 スキー場には本物のナイターがあってよく行ったものだ。 仕事が終わりそのままスキー場へ。 あの頃はジモティーといわれ羨ましがられた。 あの頃鍛えた膝はどこに行ったんだろう。 町も僕も元気な昭和の話でした。